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​歴史​・境内

【安楽寺の歴史】
 

 安楽寺の前身である天台宗 椿坂浄土院は現在の茨城町大戸 字 宿ノ内 南方共同墓地付近にあり天台宗 吉田山の末寺であった。

 浄土院の開創時期は不明だが、宗玄により建立され、健保4年(1216)に近江国(滋賀県)出身の澤田四郎高信(僧名:諦乗)が雲水の末、辿り着く。

 その後、常陸に来られていた親鸞聖人の影響を間接的に受け、承久3年(1221)頃に寺号を安楽寺とし、諦乗も唯誓と名を変えた。

 慶長7年(1602)の水戸藩の検地記録は、寺領は本堂と観音堂の建つ田畑(石高 壱石四斗七合)とあり、旦那百姓が十五名の小寺院であった。

 寛永2年(1625)頃に下町第一街(本町)の富豪、野田甚三郎の勧請により吉田村谷津(現在の地)に寺基を移転する。

 幕府の寛文五年(1665)宗門人別改帳には一向宗 吉田村谷津 安楽寺の名がありこの頃には寺基移転が完了していた。(一向宗=浄土真宗の別名)

 元禄元年(1688)5月15日に本堂、明和七年(1770)に第十六世宗源の代に庫裏が造営された。

 江戸初期の本願寺東西分派の際には大谷派(東本願寺)に属していたが、後に本願寺派(西本願寺)へと転派する。

 明治の廃仏毀釈の流れで安楽寺の寺中寺院、宝樹寺と宝林寺が廃寺となる。

 太平洋戦争の折に鐘楼を供出する。

 昭和20年(1945)水戸空襲の折に本堂・庫裏・鐘楼堂・太子堂を失う。

 昭和40年に現本堂を落慶し現在に到る。

 

 現在のご本尊 『阿弥陀如来立像』 は江戸期のもので、戦後に他の浄土真宗寺院より譲り受けた。『阿弥陀三尊来迎図』は、寺基移転前に大戸の雨貝氏に預けられたもので戦火を免れ、戦後に返還された。

 

安楽寺第二十四世住職継職法要にあたり

住職 澤田 唯(釋唯真)

 

参考:幕府宗門人別改帳・水戸史 中(一)・茨城町史 地誌編 他

​【安楽寺の境内】

小森邦夫 作 親鸞聖人像

『親鸞聖人 常陸国御教化行脚の尊像』

作:故 小森 邦夫 先生(日展元事務局長/安楽寺元総代)

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『砂丘』

​作:故 小森 邦夫 先生(同上)

『阿弥陀如来立像』(木像)

江戸時代中期

​『阿弥陀三尊像』(絵像)

江戸時代後期

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