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阿弥陀如来 南無阿弥陀仏.png

〇宗教とは

 

 宗はむねを指す言葉であり、私の中心を作るものを宗の教えと言います。

私たちは普段、家族・友人・仕事・健康・お金・趣味といったものを中心に据え、それを維持するところに幸せを見出しますが、それらは全て変化していくものであり、逆縁があれば脆く崩れていきます。逆境にされされた際でも、自らの支えとなり拠り所となり導きとなっていく不変の教えを宗教といいます。

※祈ったら金運や恋愛運が上がる、病気が治るといったものは宗教ではなく迷信と言い、むしろ人生を迷わせるものとしてお釈迦様は危険視されました。

 

 

〇仏教とは

 

 仏教とは苦しみの輪廻からの解放(解脱)を目指しその実践方法を説いた教えです。

人の抱える苦しみや悩みは様々で、また立場によって苦しみの度合いも異なります。

仏教の原点に立たれる釈尊(お釈迦様)は約2600年前にインドの地にて煩悩を超えた極地を達せられました。そして相手の置かれている状況に合わせ相手の素質に適した教えを説かれました。仏教が多様な展開を遂げる遠因はここにあります。

人が受ける苦しみは様々ですが誰もが逃れることができない苦しみが四苦八苦(①生・②老・③病・お④死・⑤愛する者との別れ・⑥会いたくない者と会う・⑦心身の不調・⑧求めたものが手に入らない)です。老病死は人が経験する自然な変化です。しかし人はその現実をなかなか受け入れられず誤った認識をもって自らが苦しみを生み出してしまいます。

その誤った認識とは、常でないものを常と思い込み、楽でないものを楽と思い込み、我でないものを我と思い込み、浄らかでないものを浄らかと思い込む心の作用であり、釈尊は苦悩の根源を我執(執着・煩悩)と見極められました。

 

 苦悩からの解放は現実を直視するところから始まります(如実知見・中道)。そして、その実践方法も明らかにされました(四諦八正道:したいはっしょうどう)。

「諦」とは「真実」の意味で、

1.苦諦(くたい)とは、人生は苦であるという真理。

2.集諦(じったい)とは、苦を招き集める原因は渇愛であるという真理。

3.滅諦(めったい)とは、渇愛を滅したことによって、苦のない涅槃寂静の境地が実現するという真理。

4.道諦(どうたい)とは、この涅槃(仏陀の悟り)の境地に至る為には八正道を実践するべきという真理のことです。


 八正道とは、苦を滅したさとりに至るための八つの実践(生活態度)のことです。

【1】正見(しょうけん)正しい見解。苦の原因は自分の心(渇愛・執着)にある。

【2】正思惟(しょうしゆい)正しい思考。貪瞋痴の三毒(むさぼり・怒り・自己中心的な考え)に流されず考えること。

【3】正語(しょうご)正しい言語。妄語(嘘)、綺語(飾り立てた言葉)、両舌(二枚舌)、悪口(あっく)(陰口)を避ける習慣をつけること。

【4】正業(しょうごう)正しい行為。仏陀が説かれた世俗の人々の守るべき十の戒め(十善戒)の中、殺生を行わない(不殺生)、盗まない(不偸盗)、男女の道を乱さない(不邪淫)という三つの実践。

【5】正命(しょうみょう)正しい生活。世の中の為になることを行い生活を送ること。

【6】正精進(しょうしょうじん)正しい努力。悪い癖は直し他者から認められる立派な人格を形成しようと励むこと。

【7】正念(しょうねん)正しい心を保とうとする心。心の汚れに注意することで乱れに気づくこと。

【8】正定(しょうじょう)正しく心を安定させること。五官(目・耳・鼻・舌・感触)による刺激から離れ、真理を求めること。

 

以上が八正道の内容です。

 お釈迦様は、上に述べたような四つの真実(四諦)を熟知し、八正道を実践すれば、一切の苦しみの輪廻から解脱できると説かれました。

ですので、菩提心(悟りを求める心:仏に成りたいという心)を起こし智慧(ものごとをありのままにみつめ真実を見通すこと)より生じる慈悲(智慧に基づき他者を思いやること)の実践を通し、煩悩を滅し悟りを目指す菩薩としての道を歩むことが大切です。

 

 

〇浄土真宗とは

 

 しかし、これらを年齢や環境・心身の都合で実践できない者、実践しても結果が伴わない者、煩悩に支配され菩提心を起こそうとも思わない者(心想羸劣の凡夫)がいるのもまた事実です。

むしろ、他のいのちを傷つけながら、時に自らを傷つけながら、菩薩とは真逆の生活をしているのが私たちでもあります。

その為、お釈迦様はそのような者(私たち)の為に、さとりの内容を私たちに分かるように、「すべてのものを必ず救うという阿弥陀仏の願い」として、説いてくださいました。

それは、愚者(凡夫)であっても南無阿弥陀仏と念仏を称えることで極楽浄土に生まれることが定まり、浄土で苦の輪廻から離れる(仏と成る)ことの出来るの救いの教えです。

 

阿弥陀仏の阿弥陀(あみだ)とはインドのa-mita(アーミタ)という言葉の音写(音に合わせて漢字をあてはめたもの)です。

・a-mita(アーミタ)のa(ア)は否定、mita(ミタ)は量るの意味で、『量りきれない』という意味になります。そしてこれはアミターバ・アミターユスの二つの語を含みます。アミターバ(アミタ・アーバ)とは「限りないひかり:無量光」、アミターユス(アミタ・アーユス)とは「限りないいのち:無量寿」という意味です。

「ひかり」は智慧を、「いのち」は慈悲を表しますので、「阿弥陀仏」とは「限りない智慧と慈悲で、ありのままの愚者をも憐れみ慈しむ真理そのもの(仏)」となります。

 

そして、南無(なも・なむ)とはインドの「ナマス」という言葉の音写で「敬う・任せる」という意味があります。

 

これらより、南無阿弥陀仏とは、智慧と慈悲の仏様(真理)が愚者(私)を導くために「阿弥陀に任せよ、必ず浄土で仏とさせる」と私のことを喚んでくださる呼び声(言葉)という受け止めになります。

 

※浄土とはすべてのいのちが仏道を志す智慧と慈悲の悟りの世界のこと

 

『浄土宗の人は愚者になりて往生す(法然聖人)』

仏さまの光(南無阿弥陀仏)に照らされていると気づくとき、自分の心の奥底の愚かさ、闇にに気づかされます

「怒りや妬みといった執着の煩悩により智慧や慈悲から遠ざかる私」が、智慧や慈悲の方向(浄土)に導かれて「行動・言葉・想い」を改めながらこのいのちを生きていく、そして命終えたときには、仏様に抱かれて浄土に往き(往生)、煩悩を滅した仏となり(成仏)、悟りのはたらきとして、この世界に還り縁あるものを導いていく

これが浄土真宗の教えの根幹です。

 

この教えは、お釈迦様から龍樹(ナーガールジュナ)[インド]、天親(世親・ヴァスバンドゥ)[インド]、曇鸞[中国]、道綽[中国]、善導[中国]、源信[日本:天台宗]、法然[日本:浄土宗]、親鸞と受け繋がれました。

親鸞聖人(1173~1262)は、あくまでも法然様のお弟子として法然様が残された『選択本願念仏集』を護り伝えられる生涯でしたが、後世の門下の方々の親鸞聖人への尊崇の念によって浄土宗の一流でありながら「浄土真宗」と呼称されるようになりました。

 

※浄土真宗・浄土宗・時宗は広義で見れば同じです。その為、大切にするお経典は皆同じで、法然様が大切にされた『仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経』と『浄土論』となります。

仏さまのお話は、本やネットで見ても、実のところ、よくわかりません。理解は出来ても実感が乏しいのです。教えを大切にしながら生きているの話を聞いて初めて分かることもあります。縁あって人間に生まれてきたお互いです、どうぞ法話会・勉強会・季節の法要にお参りください。連絡は不要です。費用もかかりません。ご自由にお越しください。お待ちしております。

(安楽寺 24世住職 澤田唯[釋唯真])

© 浄土真宗本願寺派 菩提山 浄土院 安楽寺

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